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来る・休む・学ぶ。仕える

主イエスのもとへ
(マタイ11:28)
ハレスビー

 真剣に求める魂は、自分のきよさについていつも疑問をもち、自分をあざむいているのではないかとおそれることがしばしばです。「私は進歩しないのに神の恵みのうちに安んじることができるだろうか。進歩しないということは恵みに反対して罪を犯しているのではなかろうか。私の日常の信仰生活はさばきの積み重ねではなかろうか」。このような場合は、静かにイエスのみことばに従うのです。危険はまったくありません。
 イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられます。しかも「だれでも」です。もし、少しもよくならないままで、毎日、イエスのもとに行き、休みを得ることができると考えるならば、それは間違っています。そのようなことは不可能です。反対に、もし毎日の信仰生活で、成長も進歩もないならば、それはキリストのところに行き、休みをいただいていないからです。罪のゆるしをいただき、神の惜しみのない恵みによってのみ、聖化の道の進歩があります。毎日キリストのみもとに行き、罪を告白し、罪のゆるしを得る信仰者は、必ず成長し、進歩します。
 主の招きのこのみことばを聞いて従うところにすべての奥義があります。どこでもいつでも解決の唯一の手段です。

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キリストの弟子として生きる

耳を傾けて聞く
(マタイ9:36~39) ハレスビー

 弱り果て、打ちひしがれている人たちに、深く心が動かされておられるイエスの姿は感動的です。そして深い同情心をもったイエスは自分のそばにいた弟子たちの方を向いて語りかけられました。
 イエスの弟子であるからといって、すべてこのような語りかけを好むとは限りません。彼らはもっと建徳的で、神のいつくしみをたたえるような話を聞きたいと考えます。
 「あなたはあの人が病気であることを聞きませんか。あの女性が困っているのを聞きませんか。あの人を助けるための助け手がまだ見つかっていないことを聞きませんか。あの働きのためにもう少し資金が不足していることを耳にしませんか。」
 このような質問がイエスからなされる時、多くの人々は聞く耳を持とうとしません。
 しかし一方では、イエスが誰かの困っていることと、そのための助けについて語られるとき、喜んで聞く人がいます。彼らは静かに耳を傾けて聞くのです。
 彼らは、自分たちがまず自分のことを一番に考え、他人の悩みについては忘れやすいことを知っています。ところがイエスが話し始めると、イエスが見られた人々の悩みがどこにあるのか判り、もう一度喜んで、収穫の畑に出かけるのです。

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